本を批評します。たまには映画なども。 千夜千冊?それは無理です。
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『ディオニュソスの美学』(高橋巖、春秋社)
 知る人ぞ知るオーストリアの神秘思想家、シュタイナーの翻訳・研究で有名な、高橋巖氏の新刊だ。この本も、シュタイナーの思想を確固としたバックボーンにして、それでいて平明に、「美」について語られている。

 「神秘思想は胡散臭い」という思いは、たいていの人が抱いているであろう。しかし、この本を読むと、それがたんなる偏見にすぎないということを悟らされる。

<その葉がそこに存在しようとして存在しているということが実感できたとき、その葉を存在させたいという感情も、それと結びついて出てきます。それをシュタイナーは、善なるものと呼んだのです。>

 木の葉がみずから「存在しようとして」いる、つまりなんらかの「内面性」のようなものを孕んでいるなどと聞かされると、わたしたちは訝しく思いがちだ。しかし、われわれが他人を見て、そのものが「心」をもっていると思えることが、実はそれほど自明なことではないのと同程度には、木の葉には内面がないと思うことも、自明なことではないのではないか。
 あるいは、宇宙の歴史において、まず、内面を有さない物質が存在していて、そこからタンパク質が合成され、生命が誕生し、最後に「心=内面」をもった人間に進化したという科学的な説明によっては、物質から生命への展開のなぞを、どうしても説明しきれない。宇宙の始原から、心的内面性をもったものが存在しており、それが人間の「心」として結実したという神秘学的説明の方が、はるかに論理的(!)なのだ。

 そのような、世界に充溢する「内なるもの」とわれわれとの接点が、「美」である。しかも「美」は、たんに「真・善・美」と並べ称されるもののうちのひとつなのではなく、宇宙の本当の在り様をわれわれに告げ知らせ(「真」)、その在り様に悟達したとき必然的に芽生える慈悲の心、つまり、木の葉を「存在させたいという感情」(「善」)の拠りどころでもあるのだ。

 「美」を介して世界と対面することの教え。実に甘美ではないか。
 



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「キリマンジャロの雪」(『ヘミングウェイ全短編2』高見浩訳、新潮文庫)
 復讐せぬを止まぬという心性・・・
 あるいは、「悟り」とは何かという問い・・・

 「誠実」に生きることが、なににもまして、つまり、死を目前とした時間を過ごすためにも、最上のものであるということに思い至る、そんな瞬間がないでもない。
 とはいえ、「復讐」の誘惑に日々かられることも否みがたい。

 この短編は、そんな誘惑と、「誠実」とか、「愛」とかいったものとのはざまにおける、―凡庸な表現だが―、葛藤を描いた物語だ。あるいは、たとえ死を目前にしても、この二者択一に結論を得ることのできない遣る瀬無さを、そのままの形で我々に突きつけてくる物語だ。

 男の復讐は、女への復讐として先鋭化される。

 アフリカの人里遠い山中、小さな怪我からの壊疽によって、死を意識せざるをえない男は、おそらくは、男を少なからず愛している女に毒づく。

<「パリではどこに泊まったんだっけな?」我に返ると、そこはアフリカで、隣のキャンヴァス・チェアにすわっている女に、彼はたずねた。
「クリヨンよ。知ってるでしょうに」
「どうしておれが知ってるんだ?」
「あたしたちがいつも泊まったところですもの」
「いや。いつもそことは限らなかった」
「そこと、それからサン・ジェルマンのパヴィヨン・アンリ・カトルね。そこに愛着がある、って言ってたじゃないの」
「愛なんてのは肥溜めのようなもんさ」ハリーは言った。「そしておれは、そこで時をつくる雄鶏なんだ」
「あなたは、遠いところに旅立つとき」彼女は言った。「後に残すものをぜんぶ根絶やしにしなきゃ気がおさまらないの?何もかも奪いとっていこうっていうわけ?馬と妻は殺して、鞍と鎧は焼き払っていくの?」>

 死を目前にすれば、だれもが悟達するなどと思いなすことの愚かしさを認めろ、ということだ。
 また、「死」を先駆して、復讐することなど、もう止めよということだ。

 「女性には優しくしましょう」というのは、それほど凡庸なことではないのではないか、男が「善く生きる」ためには。

 
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『俗ニ生キ俗ニ死スベシ俗生歳時記』(福田和也)
 それにしても、福田はよく書く。多作だ。最近は、長大な評伝物を立て続けに書いている。でもやはり、この男の類稀な才能は、こういう批評文においてもっとも発揮されるのだ、と思う。それ以外は余計である、とすら思う。

< 別れ際のきれいな人が、好きだった。
 挨拶をした途端、さっぱりと足を踏み出して、別の世界に踏み出して行ってしまう麗しき人。
 瞬時の容赦もない鮮やかな切り替えが、爽快というよりも、むしろ信じるべき核のごときものを、露呈させてくれる。名残り惜しさとか別れ難い気持ちを表して見せるという弱さや、卑しさを、きっぱりと振り捨てている。>

 この男には、世に生きる救い様の無さそれ自体が、甘美なものとして表象されている。とはいえ、そこからストレートに強さを志向する地点に立つこともない。救いを求める心性の女々しさもまた、甘美なのだ。

< だが、切れ味のいい別れへの嗜好が、そのまま自分の卑しさの投影であるということも否定できまい。二度、三度は振り返って見せることで、相手に対する関心、敬意を装ってみはしなかったか。より本質的に、自分との時間から解放された相手が、いかなる形で、自分を総括するのかという、関心と畏れのために、別れたはずの相手の眼を深く覗き込むという誘惑を味わうことはなかったろうか。
 画然と離れる事の出来ない、自らの足取りの湿り気に脅かされているからこそ、即座に立ち去ることの出来る人に憧れるのではないか。>

 「湿り気」をおびた自らの「足取り」。去り行く男や女。彼らこそ、この世に生きつつも、「別の世界」へと背を向けて帰郷する超越者なのだ。此岸を彼岸として観ずる眼。その眼を通して観られた世界が、甘美でないわけがないのだ。
 

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『掌の小説』(川端康成)
 「長編小説」、「短編小説」という言葉は、皆さんご存知であろう。では、「掌編小説」はいかがか。文字通り、「掌」におさまるくらいに短い小説のことだ。今日では、「ショートショート」という呼び名のほうが通りがよいだろう。一説には、明治から大正の時代に活躍した文芸評論家・ジャーナリストの千葉亀雄の命名という。
 そんな「掌編小説」122編からなる一冊が、川端康成の『掌の小説』だ。それぞれの話が、文庫本にして1ページから、長くても10ページ以下といったところ。たとえば、「眠り癖」という一編は、2ページにも満たない。それは以下のようにはじまる。

<髪の毛が抜けるような痛みに驚いて、彼女は三度も四度も目を覚ました。けれども、黒髪の輪が恋人の首に巻きついていることを知ると、
「こんなに髪が長くなりましたわ。ああして眠ると、ほんとうに髪が延びるのよ。」という、明日の朝の挨拶を思いついて微笑みながら、静かに目を閉じるのであった。>

 あるいは、「万歳」の冒頭。

<姉は二十、妹は十七、同じ温泉場の別々の宿屋に奉公している。二人とも大変美しくて気が弱い。二人が行き来することは滅多にない。唯時々村の芝居小屋で会う。>

 川端の「掌編」は、当然、長大な物語を短くつづった、といったものではない。物語の原型がそのまま「掌編」として結晶したものであり、しかもその原型は、原型であるにとどまることをやめれば、もはや物語りではありえなくなる物語なのだ。
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本日開店
ブログ、無計画にたちあげました。
本や映画についての雑文を書いていきます。
皆様、御一読あれ。
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